~謡曲「錦木」より~
大学の時に出会った彼女は、それまで恋愛というものに特別な気持ちが湧かなかった私を根底からひっくり返すような存在であった。
学科は違ったが、一般教養の科目で偶々隣の席に座った際、持ってた文庫本が同じタイトルだったということで意気投合し、気がつけば、お茶を飲んだり食事をしたり、酒を飲んだりするような仲になっていた。そして、私としては大変不本意ながら、そこまでの仲がしばらく続くことになる。
一緒にいる時は、本の話に始まり、ゲームやドラマ、映画から絵画まで様々な話で盛り上がり時間を忘れた。好きな作家の作品が出たといえば、読了後に感想を話し合って酒を飲み、好きな画家の企画展があるといえば、わざわざ電車を乗り継いで、地方の美術館へ遠征するようなこともあった。
彼女ともっと深い仲になりたいという衝動は、関係が長くなればなるにつれ強くなっていったが、いざその気でと思いながら手を出すと、いつもするりと逃げられてしまうことを繰り返していた。
大学の四年間はあっという間に過ぎ去り、私は都内の電気メーカの販社に就職し、彼女もやはり都内の人材系の企業に就職して営業職となった。
卒業後も、それなりに関係は続いていたが、お互い仕事に追われる毎日となり、いつのまにか会うことも少なくなっていった。私の職場にも女性はいたし、声をかけてもらったことも少なからずあったが、大学で彼女に出会う前に戻ったかのように、恋愛というものに興味を失っていた。
とある日、珍しく彼女から連絡があり食事をすることになった。
転職に関する相談だということだったが、どことなく思いつめた表情の彼女を見てると、なんともいえない気持ちになってきてしまい、酒の勢いもあって、つい「結婚してくれ」と口走ってしまった。それを聞いた彼女の表情が明るくなったかと思ったのもつかの間。不意に涙をためた彼女はそのまま何も言わず帰ってしまった。
自分の人生を考えて、あの時ほど惨めな夜はない。しかしその一方で、あの時、漸く彼女に向けてしっかりと一歩を踏み出せたような気がしている。踏み出し方を間違えた感はあるが。
その後、彼女が無事転職したことをいいことに、折に触れて彼女を引っ張り出し、本気でプロポーズを繰り返していたが、三年も経ったある日、突如、彼女が音信普通になってしまった。
空虚とはこの事かと痛感した。
その後、職場の女性から想いを打ち明けられ、そのまま結婚をしたのは、その空虚感故だったのだろう。
だが、空虚は埋まらなかった。妻とは五年一緒に生活したが、子供もできないまま離婚することになった。
離婚後は、ある意味では心の平静を取り戻し、仕事に打ち込み遊びにも打ち込む生活を送っていたが、唐突に音信不通になっていた彼女との再会の機会に得ることになる。
当時、とある書評ブログを片手間で書いていたのだが、そこに見慣れた名前を見つけたのだ。彼女の名前をもじったハンドルネーム。なんということはない。調べればすぐ其処にいたのだ。
おっかなびっくりフレンド申請をしたところ、あっさりと返事が返ってきた。そして、実際に再会することになる。唐突な別れから七年も経っていた。あるいは、七年しか、かもしれない。
久しぶりに会った彼女は綺麗だった。そして、性懲りもなく私は投げかける。
「結婚してくれないか」
「いいよ」
(了)
※この物語はフィクションです。
0 コメント:
コメントを投稿