~謡曲「蘆刈」より~
先日、妻が自分の実家に帰った。
「アサインされたプロジェクトが実家からの方が通勤が楽」
というのが表向きの理由だが、本当の理由は私の不甲斐無さに起因する。
私と妻と知り合ったのは大学生時代である。
当時、私が寝食を忘れてのめり込んでいた舞台を観に来てくれたのがきっかけで付き合いが始まった。
数回の観劇を重ねて私たちの舞台の常連となった彼女は、気がつけば打ち上げなどにも参加する関係になったが、まさか私と付き合うことになるとは誰も予想できなかったに違いない。
夫の私が言うのもなんだが、妻は実に美人で聡明である。私の通っていた上の下の大学に比べ、彼女の通う学校は誰もが知る有名校。舞台には一所懸命だが学業は振るわず容姿も微妙な私に対し、学業抜群で容姿端麗の彼女は眩しい以外のなにものでもなかった。
初めて彼女が打ち上げに参加した時に驚くべきことが起きた。なんと、私の向かいに座り、シーンごとのせりふがどうだとか演技がどうだと話を始め、その後は打ち上げが終了するまで質問攻めにあったのだ。周りの連中は、眉目秀麗な当時の花形よりも、冴えない脇役の私に彼女が興味を持つのかまるでわからないという顔をしていたものだ。
その後、週に1回の食事が毎日になり、気がつけば彼女の家から学校に通うようになっていた。
そんな生活を続けていても誰もが突き当たるのが就職活動であるわけだが、私たちの就職活動は、歴史上もっとも悲惨な氷河期と表現すれば事足りる「あの」世代であった。
早々に就職を決めた妻に比べ、私はことごとく内定に出会うことができず、巡り巡って秋も終わり冬になろうかという時期に、ようやく東京の片隅にある中小のIT企業に就職が決まった。そしてその3年後。細々とではあるが結婚式を挙げて夫婦となったのである。
私は、入社して研修を終了後、某大手企業の基幹系開発のプロジェクトに5次請けの技術者として放り込まれ、気がつけば保守・運用要員として各所に派遣される10年選手、そして会社で最古参の社員となっていた。一方、妻は同じ時間を経て大手企業でプロジェクトマネージャーを勤めるような人材になっている。
そのような私が、家でつらつらと職場の愚痴を言っていたところ、妻の堪忍袋の緒が切れたのが事の発端である。
結婚以前から考えても、ほとんど喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかったが、私がひとしきり職場の人間関係や自分の境遇の愚痴を言った後、「まぁ、結局は僕が悪いんだけどね」といつもどおりに話を締めた時、妻から聞いたことも無いような大声を聞いた。
いろいろ言われたはずだが、ひと言が胸に刺さり記憶に残っている。
「卑屈になるほど貴方は何かしたって言えるの」
それは怒声というよりも悲しみの声だった。そして妻は週明けからのプロジェクトに備えて実家に行ってしまった次第である。
一方、私は、妻がいない部屋に座り込んでうだうだとしていたが、妻と連絡を取らなくなり半月ほどたったある日、ようやくひとつの決断をした。
私はその翌日から寝食を捨てて勉強を始めた。そして、勉強を始めたちょうど1ヵ月後に退職願を上司に提出した。10年を取り返すには何もかも遅いかもしれないが、何もしなければ取り返せもしないだろう。今更今の会社では保守要員の域を脱することなど不可能なので、自分としては必然の考えであった。
ところが意外にも即答が無く、代わりに社長から「時間をくれ」とのメールが届いた。
社長と対面で酒を飲むのは、実に数年ぶりである。
社長の近況だったり最近の業界動向だったりと、どうということもない話で最初の1杯があいた。
2杯目が届くと、社長がおもむろに投げかけてきた。
「で、どうしたのよ?」
しばし逡巡し、重い口を開いたところ、むしろ堰を切ったように言葉があふれ、妻のひと言まで社長に話した。
ひとしきり話を聞いた後、社長は「ようやく本気になったか」と言って話し始めた。
「僕は常々管理部長に、何かに本気で取り組んだ奴が良い。そういう人間を採れって言ってんのに、君ときたら、10年だろう... まったく、管理部長に頭が上がらなくなっちゃったよ。で、どうだ、転職活動とかしてんだろ? えっ、隠すなよ。もうさ。でもうまくいかないだろう。30も超えて現場リーダーの経験が無かったり、開発実績もほとんどないし...」
まったくその通りで頭が上がらなかった。
「まぁ、オマエの気持ちもわかったけど、どうだ、もうちょっとだけ頑張らないか。一応、ウチの会社も会社らしくなってきたわけで、ガバナンスの問題とか権限委譲のどうのこうのとかあるから、あんまり僕も好きにはやれない。だけど、オマエの件については僕が横槍を入れまくってやる。そのかわり1年だ。1年でどうにかしてみろよ。」
なんともいえない気持ちになり前が向けなかった。
「結婚式にさ、僕が主賓の挨拶をさせていただいたじゃない。あの準備の時、いろいろ奥さんに聞いたんだよ。私は夫が舞台に本気で取り組んでいる姿が好きなんだって。自分にそういうものが無いからこそ、夫のそれを尊敬してるんだって。僕も同じだよ。面接の時に舞台の話をしてくれただろ。アレで決めたんだからさ。」
涙が落ち、嗚咽が止まらなくなった。
「ほんと。どんだけ待たせんだ、ばかやろう。覚悟しろ。」
その場で社長から新しい現場をアサインされ、そうして私は此処にいる。
簡単な挨拶をすませ、職場に案内される途中、廊下の奥からいきなり名を呼ばれた。
妻だった。
勤務地に見覚えがあったが、まさか妻と同じプロジェクトだとは思っていなかったため心底驚いた。
妻の周りの人は驚いている。私の周囲の人間も同様だ。お互いが夫婦だと誰も思っていない顔だ。
複雑な思いが足の先から這い上がってくる。
下を向くな。
前へ。
顔を上げ、私は妻の名前を呼び、一歩を踏み出した。
(了)
※この物語はフィクションです。
参考
裏話:ショートストーリー『蘆刈』
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